「望まれていた教え」

A. 目標、思いやり、前向き

目標が 生と学びの 活力だ
財産は 人と体と 思いやり
前向きに 歩む人生 光有り
 中学校の卒業式で校長先生が述べられた式辞は、聖書的な素晴らしい内容でした。その動機はイエス様の十字架に現われた神さまの愛を知ることにあると、改めて思わされます。
 パウロが語る福音を聞き、神さまの愛を知り、初めて「思いやってもらうこと」を知った女性たちが、集会が終わってもパウロたちについて行きました。

B.聖書より

集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。使徒言行録13章43節
 パウロとバルナバの集会の後、多くの人が残り、自分のイエス様の救いについて話し、翌週は、更に多くの者が集まりました。当時、道徳は乱れ、家庭は崩壊し、婦人たちが一番苦しんでいたからです。そんな中、ユダヤ教は、厳格で清潔な倫理と清い生活とを宜べ伝えていたので、会堂の周辺には、たくさんの婦人たちが集まっていました。この中には、上流社会の婦人たちも姿をみせ(50節)、このような教えこそ長い間待ちのぞまれていた教えでした。そして、これらの婦人たちの多くは、イエス様を信じるようになり、神さまを畏れる人となりました。

C. 女性が泣いている限り、わたしは戦う―― 救世軍のブース大将

 救世軍(Salvation Army)は、世界111ヵ国で伝道活動、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するキリスト教の教派団体で、軍隊を真似た組織をとる点に特徴があります。日本では1895年から山室軍平らにより布教活動が行われ、廃娼運動を皮切りに、現在では医療施設や社会福祉施設の運営、他国の救世軍と連携しての内外の災害発生時の支援活動なども行っています。
 救世軍の創始者ウィリアム・ブース(1829-1912)は、13歳のとき、事業に失敗した父親を亡くし、学校をやめ、貧困とはどういうものかを質屋で働きながら学びました。当時、多くの貧しい家庭の主婦たちは、子どもにパンを与えるためではなく、酒を買うために質屋に来ていました。やがて教会に通うようになったブースは、17歳で神さまに生涯を捧げる決意をします。結婚して夫婦で牧師として活動し、夫人は週に二日、飲酒問題を抱える家庭を訪問し始めました。これが、二人がロンドンの東にあるスラム街に住む2百万人ものホームレスへの、慈善活動の始まりです。そこはストリートチルドレン、コインをせがむこじきなどで溢れていました。彼らこそ、自分に託された人々であり、自分たちの信じるイエス様を、彼らの神さまとしてもらいたいと、夫婦そろって彼らのために献身する使命感を固めました。
 ブースはこの活動をする団体を、救いのための軍隊、すなわち「救世軍(Salvation Army)と名づけました。軍隊の規律が、組織を維持するのに効率がよいと考えたからです。すると、数千名のクリスチャンたちが、救世軍に加わるようになります。そして、人々がイエスさまの愛を知り、変えられると、酒代に消えていた賃金が、家庭のために費やされるようになりました。
 ウィリアム・ブースは、こう述べます。「女性が泣いている限り、わたしは戦う。幼い子供が飢えている限り、わたしは戦う。男たちが刑務所に出入りする限り、わたしは戦う。酔っぱらいが残っている限り、街頭に哀れな女性がいる限り、神の光を受けていない一人の魂でもある限り、わたしは戦う。終わりまで戦う」と。この言葉は現在も略称“WWW”(While Women Weep―女性が泣いている限り)として語り継がれています。

D.結び

 社会的に弱い立場にいる女性たちは、正しい倫理と清い生活を実現するイエス様の福音を求め、会堂に集まっていました。私たちクリスチャンは、その福音を積極的に宣べ伝えて行きましょう。その時、神さまの選びが実現に至り、人の魂の救いが完成します。
御翼2010年4月号その1より


  
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